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大同2年(807)、僧徳一は湯ノ岳の南中腹に堂宇を結び、自ら刻んだ十一面観音像を納め、万民の無事安全を願った。
永禄2年(1559)2月25日、宥長法印が田場坂の地に一寺を開山し、法海寺と号した。
同じ頃観音堂は野火に焼かれてしまい、永禄8年(1565)に檀郡岩城太守平朝臣重隆は、由緒のある観音の宝燈が途切れることを心配し、再建した。以来湯長谷歴代藩主も帰依し奉持してきた。慶安元年10月24日(1648)、徳川三代家光より御朱印十石を拝領して以後、歴代・9通の朱印状を有する別当(住職)として法海寺は栄えた。延宝9年3月27日(1681)、遠山主殿頭藤原朝臣政亮の夫人は、すでに重隆再建以来115年を経て、損傷がひどくなった観音堂を大改修した上に、梵鐘を鋳造させ、鐘撞堂を建てて寄進した。梵鐘は、高さ1.18m・径75.5cm・重さ400kg、銘文を刻み観音の歴史を300年余記録した貴重なものである。
天保6年(1835)、二度目の火災で観音堂を失い、田場坂法海寺の境内に湯ノ岳から移して再々建した時が、安政(1856)で、その堂も文久3年2月(1863)に、三度目の火事で本堂共々焼失している。このため仮本堂を建て、法海寺本尊と一緒に安置し、観音堂の再建を期して、昭和14年(1939)にようやく落慶し、入仏して現在に至っている。
本堂に安置される本尊仏(43cm)は、阿弥陀如来像で作者・年代共不詳である。本尊以外に不動三尊像が祀られ、中尊の不動明王坐像(67cm)の左右後ろに制叱迦・矜羯羅の2童子を脇侍として従えている像であり、密教興隆の平安初期からひろまった不動尊信仰は、排他性がなく国や個人を守ることから、江戸時代に東国に広まった。
観音堂の本尊は、十一面観世音菩薩(10cm)で、唐銅(青銅)製鋳造仏である。一見真黒に見違えるが地色はかなり赤味を帯び、再度の火災禍難のため変容していると思われているが、表面仕上げのための槌跡が明瞭に残り、火勢による熔変は酷くないと判断した。
尊顔は福々しい面立で、頭部前面の慈悲を示す化仏三面は、摩滅のためか僅かにそれらしい面影を残すのみ。全容は十一面特有の立姿で、両足が僅かに膝の所で折り曲げられている点が異なる。
全体の感じは、何とも言えない優しいお姿で、万民に慈悲を与える温かさが滲んでいる。
この湯の嶽観音は、磐城三十三所観音の札所5番になっており、石森山・忠教寺の古文書には、湯の嶽と石森の観音堂は、前後して建てられたと記されている。


法海寺 梵鐘の由来
法海寺 梵鐘江戸時代市内に在住していた鋳物師のなかでは、平城下梅香町の椎名家がよく知られていますが、ここ真言宗智山派に属する法海寺の梵鐘は、湯長谷藩遠山家(内藤家)の城下であった下湯長谷(現常磐下湯長谷町)に在住していた治工の鈴木清佐衛門則清の作です。鈴木則清についてはその系譜などは不明ですが、その諱から判断すると遠山家の本家である平藩主、内藤家のお抱え刀鍛冶工鈴木加賀守貞則(1860年没)と何らかの関係を持つのではないかと思われます。則清の製作した法海寺の梵鐘には、中世から近世初期の歴史資料として重要な銘文が刻まれており、その銘文には次のような記述があります。
大同2年(807)に僧の徳一によって創建された湯ノ岳観音堂には戦国時代の永禄年間まで梵鐘がありましたが、火災のため焼失してしまいました。そののち磐城の領主であり信者でもあった岩城左京太夫重隆が永禄8年(1565)に梵鐘を観音堂に寄進しましたがそれも失われ、延宝9年(1681)3月、この地の藩主である遠山主殿頭政亮とその正室である真田氏(松代藩主真田信政の長女)が加護を得るために観音堂を寄進しました。
現在法海寺に掲げられている梵鐘は延宝9年(1681)に寄進されたものです。
なお、湯ノ岳観音堂は江戸時代の末まで湯ノ岳頂上付近に祀られていましたが、安政2年(1855)の火災により焼失し、明治14年(1881)に法海寺境内に再建されました。

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